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斎藤一(さいとうはじめ)とは、1844年江戸府(東京府)が出身で、江戸幕府に於いて御家人である山口右助(やまぐち ゆうすけ)の子として生を享けた。

斎藤一の剣術

斎藤が初心の頃に鍛錬した剣術流派は、溝口派一刀流(みぞぐちはいっとうりゅう)だった。近藤勇(こんどういさみ)が鍛錬した天然理心流(てんねんりしんりゅう)の修行場である道場の館も通っていた。

斎藤一の知人

新選組二番隊組長である永倉新八(ながくら しんぱち)の証言がある。斎藤一は、道場の館から練習をした武士達と、日本が進む未来動向に関して話し合った友達だった。新選組結成以前より、近藤勇ら主要武士と既に仲が良かった。

斎藤一の失敗と改心

斎藤は、人生が大きく変わったきっかけが1862年、20才の時期にあり口論で喧嘩をして人を殺して終い、京都に逃げた。父の知人である剣術流派の主に守られて大事にならないで済んだ。だから、この流派を集中して、心を他流に奪われずに刀術に打ち込み、太子流を会得。実力が師範にまで及ぶ。

上洛

1863年近藤らが武士組の募集を知り、組へ加勢する為、京都入りした。時があまりたたないうちに斎藤も来た。その募集は、京都守護職にいる会津藩(福島県)出身松平容保(まつだいらかたもり)が待っていた。

新選組の知名度

池田屋事件では、土方歳三(ひじかたとしぞう)と同時に突入して、家屋の中で刀を力いっぱい使い戦った。会津藩から約十万円と別に約七万円を与えられた程の粉骨砕身をし新選組は、この事件により世の中、天下を知らしめた。

斎藤一の手腕

新選組における斎藤の身分は次第に昇進した。副長補佐から四番隊組長、組内改革では三番隊組長に起用された。一番隊組長沖田総司、二番隊組長永倉新八で、斎藤を含む、この新撰組は、優れた三大武士である。

斎藤一鬼鍛錬

斎藤は、訓練がかなり厳格であり、深夜中に突然弟子を呼び、夜に明かりのない場所で、刃を引きつぶして切れないようにした刀を武器にして勝負をさせたり、睡眠中に急に攻めたりした模擬交戦を訓練に含めた。新選組の中では剣道の師も担当していた。

斎藤一の能力

禁門の変は、長州藩(ちょうしゅうはん)(山口県)から潜んでいた。御倉伊勢武(みくらいせたけ)と荒木田左馬之亮(あらきださまのすけ)を敵の心を見とおし切り殺した。 斎藤は、五番隊組長武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)は、薩摩藩(さつまはん)(鹿児島県)の考えや言うことを悟っていたので、切って倒していた。 1867年伊東甲子太郎(いとう かしたろう)は、局長と新選組の戦に関して計画を立てたり、助言をしたり人を務めたが、朝廷を護衛する隊士を組織化し、新選組から分派した時には斎藤は、近藤に命じられ、敵の様子をひそかに探るスパイとして潜入した。 伊東甲子太郎は近藤を殺害しようとした計画があることを斎藤を通じて知った。近藤は、伊東に厳しく取り締まって反対派を追放した。

斎藤一が関わる事件

油小路事件(あぶらのこうじじけん)は、伊東隊士と新選組が争うことにより新選組を二分化した最大の内乱事件である。 土佐藩(高知県)藩士らは、紀州藩(和歌山県)の用人三浦休太郎(みうら きゅうたろう)を天満屋(てんまや)に於いて京都の油小路にある客亭で、奇襲をした事件が勃発した。新選組は、斎藤を含め三浦休太郎を護衛し、土佐藩士らを攻撃して追い払ったのが天満屋事件である。

戊辰戦争

鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)から初まり、旧幕府軍と新政府軍がお互いに交戦した戊辰戦争(ぼしんせんそう)が発生した。新撰組は旧幕府軍に追従し、あちこちと場所を変えて戦った。斎藤も、動きながら会津へ入った。 斎藤は、土方が負傷したので新選組隊長になり、隊士へ命令したが白河口の戦い(しらかわぐちのたたかい)と母成峠の戦い(ぼなりとうげのたたかい)で敗北をした。会津藩が降参した後、徹底的に応戦を続行したが松平は、会津藩主で斎藤を納得させて遂に相手に負け従った。新政府軍の敵方に捕らえられた。

姓名を改名

戊辰戦争終戦後は、少しの間会津にいて、藤田五郎(ふじたごろう)に名を改めた。1876年(明治9年)会津藩の幕政全般を監察していた高木小十郎(たかぎ こじゅうろう)の娘である時尾(ときお)と婚姻関係を結んだ。

西南戦争

1877年(明治10年)藤田は、警視庁に入り警部補の地位や任務に就くと、西南戦争が勃発した。その内戦に勝って、勲功や賞金として二百万円を、明治政府に与えられた位の奔走だった。

藤田五郎の余生

藤田は、警視庁を辞退した後、余生が東京高等師範学校附属博物館(東京都)の守衛の仕事を始めた。しかし、主な務めは剣道師範であり、斎藤一の藤田五郎が竹の刀を持つ姿勢になると誰も、竹の刀に触れられなかった。